ウィッティア (Whittier)
ウィッティアのルーツはスペイン軍人マヌエル・ニエトまで遡ることができる. 1784年、ニエトの兵役任務に対する報償と、カリフォルニア開拓の奨励のために、スペインから広さ30万エーカー (1,200 km2) のランチョ・ロス・ニエトスが払い下げられた. その土地はサンガブリエル伝道所との論争の結果として、1790年に減らされた. それでも領地は167,000エーカー (680 km2) あり、ウィッティア北にある丘陵部から、フラートン、ブレア、南の太平洋まで広がり、西はロサンゼルス川から東はサンタアナ川まであった. ニエトはウィッティア近くに家族の牧場を設立し、牛や馬を購入し、またトウモロコシ畑を造った. 1804年にニエトが死んだとき、その子供達が資産を相続した.
米墨戦争のとき、町の大半は牧場主かつメキシコ領カリフォルニア総督のピオ・ピコが所有していた. ピオ・ピコはウィッティアのサンガブリエル川沿いに大農場を建設しており、それが今日のピオ・ピコ州立歴史公園となっている. 戦後、ドイツ人移民ジェイコブ・F・ガーケンスが、ホームステッド法の下で234ドルをアメリカ合衆国政府に払って160エーカー (0.6 km2) の土地を取得し、丸太小屋を立てた. これが現在ジョナサン・ベイリー邸と呼ばれている. ガーケンスは後にロサンゼルス市警察の初代署長になった. ガーケンスの土地はその後数代所有者が変わった後で、クエーカー教徒集団が購入し、クェーカーの町を造るために広さを1,259エーカー (5 km2) まで拡大した. この地域は間もなく柑橘類の栽培で知られるようになり、「クエーカー印」の果物が国内全土に出荷された. 後には胡桃の木も植えられ、国内最大の胡桃生産地となった. これらに加えてパンパスグラスの大生産地でもある.
1887年、サザン・パシフィック鉄道がウィッティアを通る最初の支線を建設した. この鉄道で1880年代の好景気が起こった. 1906年には、年間で貨車650両のオレンジと、250両のレモンが鉄道で出荷された. 1904年、パシフィック電鉄が、ロサンゼルス市からウィッティアまで「ビッグ・レッド・カーズ」と呼ぶトロリー線を開通させた. その最初の20年間で毎年100万人以上がこの路線を利用してロサンゼルス市との間を往復した. 胡桃の木は1887年に植えられ、国内の主要生産地になった.
第二次世界大戦後、ウィッティアは急速に成長し、南カリフォルニアでの住宅不足に駆り立てられて、オレンジ園の分割が始まった. 1955年、シビックセンター複合ビルが完成し、1955年3月8日に市政委員会最初の会合がその新しい議場で開催された. 市はウィッティア・ブールバードやイーストウィッティアの一部を併合して拡大を続け、1961年の併合では人口が28,000人増えて、約67,000人になった.
地図 - ウィッティア (Whittier)
地図
国 - アメリカ合衆国
アメリカ合衆国の国旗 |
アメリカ合衆国(United States of America)の頭文字を取って「U.S.A.」もしくは「USA」、合衆国(United States)の頭文字を取って「U.S.」もしくは「US」、または単にアメリカ(America)とも称される.
通貨 / 言語
ISO | 通貨 | シンボル | 有効数字 |
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